亜門様とティム様のトッド
J・デップが「スウィーニー・トッド」でアカデミー賞にノミネートされた。まだ一度も穫って無かったなんて、ぜひいい結果になって欲しい。
そして浅野忠信さんもノミネートされてた。しかもまだ日本で配給が決まっていないんだそうな。でもこれで、どっと群がるんだろうなあ。日本の映画界って、、、なんだかなあ。
さて本題に戻って、宮本亜門さんの言葉を。
「トッドは単なる悪人ではなく、人間なら誰しもありうること。……僕は復讐の連鎖は断ち切れると信じている。なぜなら誰もが自分の中に『許す』という大きな力をもっているから」――舞台版のパンフから。
「人間にはあらゆる感情と心が備わっていて、人は生きるために自分の心を切り裂くこともある……その痛みを否定せず、おおきな包容力を持って訴えかけるのがこのミュージカルの魅力」――デップ様の映画版のパンフから。
私は宮本亜門の舞台を見終えて、涙が止まらなかった。血まみれの復讐劇のはずなのに、哀れでなぜか愛おしかった。それは、この演出家が”『許す』という大きな包容力”を根底にもって、このおぞましい惨劇を包み込んだからだ。この『許す』という部分、哀れで愛おしいという部分(これは復讐鬼トッドの隠れた部分なのだが)、この最も重要なところを担ったのがトバイアスに他ならない。
武田真治は「辛い時代背景や環境の中で誰よりも純粋で真っ直ぐにいきているキャラクターとして演じろ、と言われました」とFC会報誌で言っている。彼の演じるトバイアスが純粋で有ればあるほど、トッドの愚かさや醜さ、哀れさをきわ立たせるのだから、当然だよね。武田くん、見事に演じきったと思う。本人は「純粋ってなんだ?」と「一度真っ黒になりました」そうだけど。
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では映画版のトバイアスはどうなんだろうか?って話になるよね。前に書いたとおりトビーが少年であることでラベット夫人の母性愛が強くでる。映画だから少年であっても体力的に大丈夫だし。……本当にそれだけの理由だろうか?
俳優の演技とソンドハイムの音楽、画面の美しさ、これらが素晴らしいので この血なまぐさい惨劇がヒューマンドラマになっている、、、と前に書いたと思う。ベンジャミン・バーカーが復讐に燃える悪魔・トッドとして徐々に狂っていくデップ様の演技は、自分もそうなるかも、と観客に殺人を肯定させてしまうほどの迫力だ。
ところが、ヒューマンはここまで。ラストシーンでこれが大きくひっくり返る。トビーが排水溝から出てきてトッドの首をカミソリで切る。トッドの動きが止まり、トビーは振り返りもせず過ぎていく。このときのトビーの目!!何も写らない、人間の温度が何もない、狂気の目!
――私はたとえ演技であったとしても、子どもに殺人をさせるのは許せない。トビーはどんなつらさにも負けない強くて聡明な少年であった。将来はきっと幸せをつかんだであろう、愛すべき少年であった。しかし全ては失われたのだ。私は身も凍るほどの怖さを感じて動けなかった。
このラストのワンシーンで、ヒューマンドラマが一瞬にしてホラーに変わる。
恐るべし、ティム・バートン!
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