2008年11月16日 (日)

給我一支猫・ストーリー①

P20.故事

中国語では物語のことを「故事」といいます。タイトルはこれ↓

………………

マッチ棒のような女と妻楊枝のような男の物語

潔美の洞窟

すべてはこの潔美の隠れ家から始まった・声が聞こえる……。

「黑樹」

「うん」

「誰かに会ったの?」

「あれはもしかしたら潔美だったかもしれない」

「あなたは潔美が生き返ると信じているの?」

「潔美は小さい頃大病をわずらって一度死にかけたことがある。だからママに彼女が死んでしまったのかどうか聞いたんだ。ママはあの子はもう一度帰ってくると言ってた。」

「あなたは帰ってくると思う?」

秘密はすべて潔美の洞窟にある

その洞窟は今は使われていない防空壕で、黑樹と妹の潔美が幼い頃、秘密基地にしていたものだった。

潔美はその真っ暗な洞窟の中で、歌ったり作り話をしたりするのが好きだった。

ある年の台風の夜、なんと妹はたくさんの瓦礫や看板、羽布団なんかと一緒に吹き飛ばされてしまったのだ。

黑樹はそれ以来、妹についてこう言うことにしている:あの子は力を尽くして――彼女を思う人のそばに飛んでくることができるんだ、と。

その時からずっと黑樹は全ての外界と気安く関わらなくなっていった。母は潔美は必ず帰ってくると言っているが、そんなこと始めから実現しないたわごとだ。

黑樹はその事件を小さな秘密として、胸のずっと奥にしまい続けたのだった。

あの子は きっと力を尽くして

思う人のところへ飛んでくる

彼女は猫だったのか、 それとも潔美だったのか?

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2008年11月 9日 (日)

人物紹介(3)

時間があいてしまいました。登場人物の紹介つづきです。

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夢中見読書会

・高貴村

67才。読書会の創始者。いつもトランペットをかかえているが、人に教えようとしたがらない。今まで誰も彼が楽器の演奏をしているのを見たことがない。

読書会のマネージャーで、聞くところによれば以前はスリだったという。

・高達

30才、どことなくセレブな雰囲気。数学修士の学位を持っている。すでに成人しているが少年のような面影をただよわせている、実は読書会の陰のリーダー。

家族で小さなパブを経営している。長い間「死亡滋味方程式」なるものを研究中。

・土匪

20才。環境保全主義者(エコロジスト)である。隙をみては他人の者を持ち去るのが好きで、物品を収集する癖がある。

はれぼったいがきれいな眉目をしていて、友達の家に遊びに行っては姉妹の入浴をのぞいたりする。身体は大きく家族はいない。いつも未来から来た黑樹の弟だといっている。

・小莫

22才。刺青をしては楽しんでいる。

ともすれば詩的な言葉で話し、まさしくマドンナmadonnna的存在(土匪の姉)。

一日中ずっと悩ましげなようすで猫を抱いている。

・阿不

25才、ウェブページ制作の特技を持つ。よく犬を蹴とばす。

メンバーの中で唯一、高達と心を通わすことが出来る。

………………

登場人物は以上です。実際に映画をみてもわからなかった「夢中見(=デジャブ)勉強会」のメンバーたちのプロフィールがここでやっと知ることができました。

次回はいよいよストーリーです。

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2008年11月 2日 (日)

人物紹介(2)

「給我一支猫」の登場人物Part2です。

……………

・瓦斯季

女性、25才。鐵雄の部屋の階下に住む産婦人科の看護士。アネゴ肌にみえるが、実際は繊細な考え方をする。鐵雄よりはるかにクリエイティブな才能がある。

いつもMuse(=ミューズ:詩の女神)のように、鐵雄にヒントを与えてくれる。

・小乖

15才。中国とフランスの混血。好奇心が強い。

黑樹の同級生の妹。

・Dr.皮

42才。産婦人科医。理髪や抜歯もする。

鐵雄のいとこ。

・老張

62才。擺夷族(東方の部族)の人。

一族の習慣で若いときは「走婚(=同棲?)」をしていた。

年老いた飼い犬が行方不明に。

・小女孩

少女、10才。早熟で聡明な女の子。

この街でただ一人の冷静な人間といえるかもしれない。

……………

漢字をさがすのに疲れました。人名は苦労します。

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2008年11月 1日 (土)

「給我一支猫」本の訳・続き

おひさです。

そろそろこのブログの本来の目的である「給我一支猫」の訳を再開します。

P16のいよいよ「故事(=ストーリー)」からです。

………………

P18 人物紹介

・黑樹(Kuroki)

28才 一人暮らしの青年。自分は日本人の生まれ変わりだと深く信じている。これといってやり遂げたこともなく、いつもノラ猫といっしょにトタン屋根にねそべっている。Saxophoneが吹けるようになることを夢見て、太陽に合わせて寝起きしているような生活。

これといってときめくこともなく、感情をおさえることにすっかり慣れてしまい、心から歓喜することも無くしていた。

・鐵雄 (Tetsuo)

31才。産婦人科の医学生でもあり、奨学金でパイロットの訓練も受けている。

疑い深く精神的に問題があり(彼は常に猫と対等に話している)、それ故パイロットの資格は取り消されてしまった。

アマチュアの作家で、余暇に作家活動をしては勉強会も長期欠席している。鐵雄とは(黑樹の先輩としての呼び名)である。

・養樂多(Yukulto)

25才。おもかげが一見猫をおもわせる謎の女性。離婚歴あり。路上駐車をとりしまるバイトをしている奨学生になりすましている。

・杲雅琪

29才、TV番組のキャスター。 

ずっと黑樹が密かにあこがれている、守護神ともいうべき恋の対象。いつも光る螢のように、人生の方向を示してくれる。甘い声と天使のような風貌をあわせもつ女性。

・潔美(Kiyomi)

妹。鐵雄とは血縁関係のない妹で21才。きれいな一重まぶたをしている。小学のとき、母親と一緒にアメリカから移民してきた。

いつも精一杯で思い詰めているような感じ。誰のところにでも飛んでくることができる。

……………

もう寝ます。続きはまた。

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2007年2月13日 (火)

堂本兄弟に初めて萌え

今回の新堂本兄弟のゲストは 中川翔子ちゃん!・・・ってぜんぜん知らなかったけど。

このコの話が面白い、アキバ系おばさんとしては 萌え~な内容満載。

そして曲がですよ、「残酷な天使のテーゼ」!!ぐおぉっっエヴァンゲリオンじゃないか。

武○真治よ、何故、何故に欠席なのだ?この曲をsaxで演ってほしかった。

トップランナーでも庵野秀明 出てたじゃないの。もっとも栗山千明が出たとき(このコもエヴァ萌え)は、かなーり引いてたけどね。

まあいい。済んだことは忘れよう。

序――放浪する少年時代(5)

私は自分の理屈が中途半端なことを知っているので、この孫子については見たこともなくよく知らず、ただ想像するだけだ。彼はおじけつくでもなく、わびる様子もない。もしあなたが老いた農民がヤクザにからまれたとき、助けにいきますか?当然行かないでしょう。ヤクザは老百姓にからんだことなど二度と思い出すことも無い。この罪のない老いた百姓の存在をヤクザに気付かせることによってのみ、彼が罪を犯したことを知ることができる。いずれにしても私が孫子について認識不足である、ということはさけられない。

さて、台湾のTV放映圏の狭さにはうんざりするけれど、もちろんどうすることもできない。

1998年のこと、私は台北電影祭にいた。短編展には参加しなかったが、一日中観賞していた。私は呉米森が大学時代につくったもので、この電影祭に入選した短編映画《梵谷的耳朶》を観ることが出来た。私は番組プロデューサーの身であるから、わけわからない宣伝となったことだろう。

この映画は艾倫金斯堡(注・人名)がまだ存命していて 呉米森の名を有名にした作品である。

つづく

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2007年1月20日 (土)

「猫」のDVD

猫のDVDが台湾(中国本土かもしれん)で昨年の6月に販売されているらしい。某チャンネルにでているURLは、インターネットで注文できるサイト。中国語か英語に自信のある方は直接注文できると思う。ついでに、今やどんが訳している「猫」本も注文できるよ。

ただし、ログインが必要かもだし、そうでなくても個人情報を見知らぬ外国に知らせることになるので慎重にするといいと思う。やどんは安全を期して日本の代理店を通す方法を検討中。

DVD自体はリージョン3で、セリフはもちろん武○真治本人でさえ中国語。字幕は英語らしい。高機能のDVDプレイヤーなら日本でも観られそうだが、はたしてどんなものやら。ちょっと時間ほしい。

さて、昨日の続き

序―――放浪する少年時代(4)

撮影過程は耐えがたいものではあったが、呉米森は人が不思議に思うほどみごとな作品に仕立て上げていった。彼はまさに固いベルト(=トラブル)を粉々に切りきざんだのだ。それほど撮影が困難だったのは現場が証明している。

新しいスタッフ編成を中心にすべては編集室で行われたが、もとより理論的なやりとりもなかった。打ち合わせが終わった後彼は自らひとつのコンセプトをうちたて、それは我々にとって分かりやすいものではなかったけれどもとても味わい深いものに思えた。

彼はすいぶん思い切った編集をしたようだ。内容はいささか倒錯しているのは否定できないが、ワンカットごとのゆらめくような光と影は独特の魅力をはなっていた。彼の画面処理能力は、過去にくらべるひともいないほどだ。撮影現場と映像に表現されたイメージとはちがう、ということは私もかねがね知っていたが、それはまるで魔法がほどこされたようで、正直なところはっきり言うことができない。最初に挙げた王朔(ワン・シュオ)の言葉を借りれば、そんなときはただこう言えばいい「本当に孫子の母だね」と。

孫子=中国・春秋戦国時代の兵法書。人の名前かと思ったら、戦争のしかたの本だった。孫子の母って意味はヨソモノにはわからんわい。

この評論家は女性かもしれない。前の評論家より文が具体的でわかりやすい。ちょっとだけだけど。

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2007年1月19日 (金)

舞台上演中のライブ

われらがメチャ兄さん武○真治君は、舞台の上演中であっても必ず何度かライブをやるよね。

ライブっていってもその場しのぎの軽いものだから可能なんだろーなー。昔気質の演劇人には理解不能でしょうし、逆に音楽好きのファンから観ても中途半端なライブでしょうし。やどんは疲れを顔や声に出さなければOKかな。電車男のときはライブの後、しっかり顔がやつれてたからこれはプロ失格!こんどのトッドはどうかな?

でも、ま、ライブは縁起物ってことで。「給」の訳続きです。

序―――放浪する少年時代(3)

この番組の監督こそが呉米森だった。番組開始時、彼は監督が自分だとは聴いていなかったから、撮影現場に行ってみて頭から冷水を浴びせられたような気がしたそうだ。私はどんなふうに撮影するのかはっきり知らず、勝手に一般的な感覚でとらえていた。しかし、あとから来た私や上司がどなっても収まりがつかないほどで、このどうしょうもないゴタゴタの下でかわいそうな監督は撮影しなければならない。まるで固いベルトを切るような努力を強いられるのだ。

途中で眠くなったので次回に続きます。 ぐう。

 

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2007年1月11日 (木)

近頃の事件

最近次々と起こる事件は、もうついていけないぐらい猟奇的だ。家族が命を奪うって、どういう事なんだろう。何かが狂っているとしか思えない。現実がこんなに凄いと、スウィーニー・トッドの世界さえ色あせて感じられる。

半世紀も生きているといろんな経験をしたり聞いたり、身近でみたり。だからホラーなんていうのにと~んとニブくなってきている。ただでさえそうなのだから、こんな現実の事件の後でスウィーニーの舞台をみて自分はどんな感想をもつのかなあ。われながら予想つかない。

さて、昨日の続きです。

序――放浪する少年時代(2)

注:昨日の文に出ていた人物は

  暁龍=鄭暁龍(ジョン・シアオロン) 中国の映画監督

  王朔(ワン・シュオ) 中国の脚本家

どうやらこの二人を取り上げているらしい。以下、本文。

馬小剛の新書《我把青春戯給称》=(僕が君に与える青春の楽しみ)という本の中に彼と王朔との友情についての段落がある。私は特に会ったことはないが馬小剛の本は過去にもいくつか販売されているので、私はそれを買い求め引用した。

 さて1997年のこと、当時私は呉米森と同じテレビ番組のスタッフだった。私たちは《給我一支猫》における黒樹と土匪の関係と同じような立場だった。レギュラー番組の紹介を真剣にやっているように装いながら、実は裏では心ここにあらずだったように思う。

 私はこの番組のシナリオを書いていたが、それはどの道いい加減なものにすぎなかった。撮影の内容には関わらなかったが、全てにおいて理屈にあわず、やはりRundown(打ち切り)を通告されていた。→続く

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2007年1月10日 (水)

放置してたら明けてしまった。

しんちゃんのファンサイトがトッドの話題で盛り上がっている中、2週間ぶりにやっと更新する我が過疎地ブログ。

主婦のお正月はお休みなんかないのよね。子ども達は帰省するしお客はくるし、おばあちゃんが元気だったのが何よりもよかったけど。

トッドは再来週観劇予定。あわせてコリオレイナスも観てくる。初蜷川だからこっちもドキドキ。wowowでオレステスも放映してくれるのでこちらも観ようと思う。藤原君の舞台はみれないけどせめてTVくらいはきちんと観ないとね。だって来年、身毒丸やるってうわさだもん。

さて 長い間さぼっていた「猫」本の訳を続けます。2番目の評論家が紹介文を書いてます。

序――放浪する少年時代 (P9)

   何瑞珠 文

暁龍の文章は一度読んだだけではケラケラ笑い声は出ない。ある時は笑いある時はののしり、彼は本当に孫子のようだ.。私はこのような批判的な作家は聞いたことがない。それは表面的には賛辞の言葉とはとてもいえないが、ある種の喜愛のようなものらしい。

わたしは彼にたずねた : 誰が孫子なの? 暁龍の文はそんな文の集まりのように私にはおもえるわ。

彼は言う : それは 王朔 だよ。1985年12月の。 僕が王朔と最初に会ったのは1986年、夏のある日の午後だった。彼の二編の小説は僕はすでに読み終えていた。そこから抱いた感想は 本当に孫子の母親だと思ったことだ。

ここはどうやら前振りの文らしいけど、意味がサッパリわかりません。

この先おもいやられるなあ・・・・  

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2006年12月10日 (日)

今さらLOVEDEATH

東京シネフェスの感想がでつくした今さらながら、「LOVEDEATHやどんのツボ」を書いてみようと思う。(ネタバレ注意)

実をいうと、サイとシーラのからみはよく覚えていない。キスシーンなんてあったっけ?あったかも。

さらにマズイことにギターひくシーンやSAXなんて全く記憶に無い。もともと恋愛沙汰に興味を失って久しいからラブシーンは覚えて無くても、音楽からみなら観ていれば記憶に残るはず。観ていればってことは、、、たぶん寝てた。あ゛あ゛あ゛~。自分では2,3分ウトウトのつもりだったんだけどなぁ。

まあ観てなくても感想はそうかわらないと思う。やどんにとって武○真治LOVEDEATHのツボ、それは六平さんとの「包丁バトル」です。刃渡り20センチもあろう肉切り包丁とか、おっきい出刃包丁!それを顔や体のすぐ近くでジャギジャギやるもんだから、怖かったー。鼻とか指とか切り落ちそうで、背筋がぞっとした。

これが銃やら剣やらの武器だったらこんなにザワッとしなかっただろう。それが身近にある、いつも使っている生活用具なのだ、これは怖い。さらに包丁は「長崎バスジャック事件」を思いだす。主婦が日常親しんでいる道具が殺傷の凶器となるということが、実になまなましくもおぞましい。斬新なアイディア、北村監督GJ!

もし包丁に HENCKELS(ヘンケルス)や ZOLINGEN(ゾーリンゲン) とか書いてあったら小ネタ好きやどんは大絶賛だ!公開時たしかめようっと。

・・・・猫の本は 韓良露 という評論家の文が終わります。

さて、呉米森の《給我一支猫》だが。タイトルが 一隻猫 から 一支猫 (つまり動物名詞から無生物名詞に)かわっているのは、呉米森の鋭い感覚と意図によるものだろう。彼は自分の映画が、ただ人生を模したものではなく、現代の抽象絵画のような美しさを取り入れていることを 心得ている。映画の基本的要素となっている口出しできない「物体」――看板、大道具、小道具、衣装、音楽 それらが一支猫を漫画的な世界へとさそう。

僕は《給我一支猫》のラストが大好きだ。大まかに言うと、人の生の存在がひっくり返っているのだ。死の床にある老人に生が芽生え、その後どんどん健康を回復して何十年も働き、そして恋を語る若者となり、さらに毎日遊んだり勉強したりする子どもになって、やがて母親の子宮の中で卵子と精子の結合という形で死に至る。

《給我一支猫》のラストの言葉は、この映画の謎をとく最も重要な伏線である。呉米森は生命がとても重いものだと承知しているが、人生は生老病死・天国からきて地獄に行く、というパラドックス(逆説)的手法でこの映画を撮ったのだ。しかも彼は、このような高度な死の認識がテーマの映画で、子どもの遊びのような手法を使っている。多くの観客が呉米森と一緒に童心に帰ってこの映画を観るなんてことは出来ないのが残念だ。

韓良露

・有名映画評論家・美食家・旅行家

・映画プロデューサー・新聞コラムニスト

・グルメ・占星術・映画評論など著書多数。

一番長い評論家がやっと終わったよー。

生老病死(しょうろうびょうし)とは「四苦八苦」の四苦、誰もさけられない4つの苦しみのこと。仏教用語だよ。

要するに 難しいテーマをあえて軽く描いているってことね?ね?

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2006年12月 5日 (火)

介護制度の闇

今日、おばあちゃんの介護度更新の面接があった。この面接と家族や看護士への聴き取りを参考に、判定会議をして介護度が決まる。介護度とは 介護がどのくらい必要なのか判定する基準のことで、軽い方から1~5まである。

この介護度が実はすごく重要なのだ。介護1の下は要支援となって、介護保険が十分きかなくなりヘルパー頼むにも容易で無くなってくる。また、施設に入所するにも介護度が高い方から優先される。

うちのおばあちゃんは介護1だったのだが、今年骨折やら肺炎やらで入院したままである。横になっている事が多いのでめっきり脚がなえた。体重も10キロ近くへった。排泄もままならぬ。それでもつたい歩きができるから、介護度はあがらないかもという。

なんなんだ、この国の介護制度は!全盲のおばあちゃんが介護度1ももらえなかったという新聞記事を思い出す。あてになんかするもんか、がんばろうね 母さん!

う~~ 「猫の本」むずかしいよー。今日は7ページ下の小見出しからです。

映画は思想の容器である

呉米森の映画はインテリ層に歓迎されるようだ。ある一つの言葉使いが決して退屈にさせない、友達との雑談のように面白いのだ。ただし映画の話のスジやストーリーを追い求めると、おそらく観客の知力に相当 負担がかかるだろう。映画はただ話の筋書きを伝えるもので、思想的な入れ物ではないと誰が決めたのだろうか?呉米森が映画の中で、本当に説明を要する4カ所に解説を加えたのはいうまでもない。彼は自分の語りを地図、迷宮、積み木などの遊びを使って表現し、監督の説教じみた表現方法を映像に用いなかった。

呉米森はかなりの機知やユーモア、ギャグなど童話的方法で彼の生命哲学を映画に散りばめ、それが観る人の迷宮をさぐるガイドラインとなっている。

呉米森の映画の試写ではかなり意識的に一つの国語を使っている。日本人俳優の動作はあくまでゆったりとしていて、日本人と社会とがしっくりいかず互いに離れているような効果を生み出している。

呉米森の編集では、発音場面を長々と出さずカットをつないで、大都市の風景もからめて美しく仕上げている。観客は、呉米森の映画がかなり日本的であると想うだろうが、一般的な日本びいきのアイドル映画とは違う。呉米森は台北の社会にひそむ日本的な要素を、解釈し、批判し、反省している。しかも日本的な感覚をいだかず、逆に親日的な人々の荒んだ浮遊性を遠くから観察しているのだ。

台湾はね、昔、日本が植民地にして支配していたからね。日本とのかかわりには複雑なものがあるらしい。日本文化に対する憧れは、ものすごいみたいだけど。

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2006年12月 1日 (金)

ジャガーさんが!

ジャガー横田さんがハワイで男の子を出産されたそうだ。なんと45才!初産とは。おめでとうございます。

45才かあ。。。思えば43才の時に一度職からしりぞいたことがあった。あん時もう一人子供が産みたくて、話持ちかけたんだけどあっさり断られてしまった。産めば良かったなあ、45才で初産かあ。。。

なんて言ってる場合じゃない、猫の本の訳を続けます。

呉米森の映画には2種類のスタイルがある。一つは頭が何も考えられずに完全にリラックスするもの。ただし彼の映画にひとたびふれると、彼の夢の中にさ迷い、存在のむなしさを感じてしまうだろう。

もう一つは、台北周辺の人々の浮き沈みを描いたもの。これはある意味 脳がひどく冴えわたる。呉米森は思想的哲学的な迷宮を、映画の中に誘い込もうとしている。

呉米森の《給我一支猫》のように 哲学用語にみちた映画はとても少ない。そのような言葉は考え方をきわめて高級な面白いものにする。

つまようじのような男とマッチ棒のような女(注:給我一支猫の主人公のこと)に限らず、呉米森の映画や物語に登場する人物は 社会、仕事、生命、浪費、死などについて「呉米森語録」をもちいて、するどい比喩(たとえ)で映画を満たすのである。呉米森の映画の人物がかなり賢いのは、かれが思考的な人々と交流しているためだ。

というわけで FC会報来ました。わーい!

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2006年11月22日 (水)

台湾語のむずかしさ

台湾語っていうか、中国語(中文)っていうのはすべて漢字で書かれている。当たり前だけど。それも簡体(省略した漢字)と繁体(日本の漢字と同じ)ってのがあって、台湾語はこの繁体なのでやどんにもやっとこさ訳ができる。漢文は高校の授業でやった程度だから、中日辞典で一語一語調べながらなんとか訳していく。だからと~っても時間がかかるんだよね。

で、なによりも大変だったのは、「音」「読み方」まで漢字でかいてあるってこと。日本語では読み方だけを表す文字があるよね。ひらがな、カタカナと。だから、日本語で「サックス」と書けるところが、中文にはカタカナがないから「薩克斯」と表記される。言ってみれば数取団の「夜露死苦」のようなもの。これがね、漢字ばっかりの中にあってごらん、わっかんねーから。

で、先日中断してしまったのは フランスの監督「高達」がいまいちわからん。「高達」は検索すると中国語で「ガンダム」のこと。だから、以前の日記でガンダムとして紹介したと思う。

しかしいくらなんでも フランス映画の監督が「ガンダム」のわけがないから、ふと行きづまってしまったのね。

そして、ハタと思いあたった、これは「ゴダール」と読むんじゃないかって。そうすると、前後の文がよく理解できる。そう、高達=ジャン・リュック・ゴダール、きっとそうに違いない!

で、昨日の記事は直しておきました。訳の続き

呉米森はゴダール以外の人からも影響を受けている。(後に呉米森が語っていたが、心を寄せた監督はゴダールを除くとウディ・アレンだそうだ。思えば両監督ともに射手座である。は!呉米森は彼らと180度違う双子座ではなかったか)

とはいえ呉米森が独自性に欠けているというわけではない。かえって彼は影響を受けながら、同時に自分の的確な叙事的センスをより高めていったのだ。これほど手慣れた力強いカメラワークをする新人監督は、きわめて少ない。

呉米森は台北市を撮影するにあたり、この幾何学的な現代都市をビジュアル豊かなものに仕上げている。彼の映画の登場人物は、建物のすきまや星の見える屋根裏部屋、屋上、空き地、ガード下、スクラップ置き場、自動販売機の前などにたむろする。

呉米森は台北という孤独な都市にかくされた寓話性をするどく捉えている。クールでマニアックな手法を使うことによって、彼の映画は眼がさめるような現実と、幻にさまよう夢と、同時に兼ね備えたものとなる。

ウディ・アレン てのも 「伍迪?倫」をやどんなりに解釈したもの。たぶん正しいと思う。

この人↓

http://cinema-magazine.com/old_page/kyosyo/allen.htm

高達がガンダムであっても、やどんはむしろその方が面白い。哈日族(ハァルイズゥ=日本びいきの人々)である呉米森がジャパニメーションの代表作ガンダムに深く影響されててもおかしくないもんね。

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2006年11月21日 (火)

梅干しババアとはよく言ったもんだ

だれだって体調っつうもんがあって、良かったり悪かったりいろいろなんだけど、年をとるとそれが天地を返す大事件らしい。母の入院先から電話があって、すぐ来てほしいという。昨日もいったのに何事かと思いきや、お腹をこわして大量の洗濯物が発生したということだった。なあんだ。

娘の顔をみると安心するらしく、あれこれ世話をやいて、布団をポンポンとたたいて寝かしつける。まるで 幼児だ。しみじみ顔をながめる。なんっちゅうシワだらけの顔じゃい。たまらず吹き出す。

洗濯ぐらいいくらでもするから、そう心配しなさんな、ね 母さん。

と言うわけで大量の洗濯を終え、猫の本の訳を続けます。

(「猫の本」をお持ちの方はP7の小見出しからです)

――――はっきりした現実感と幻のような夢境感を兼ね備えている

21世紀になった今、呉米森が関心をもつテーマは、ここ数年の台湾の移り変わりを的確にとらえる、ということだ。実はこれはフランスの監督 高達(=ゴダールのことと思われる) が1960年代のフランス社会を批判したテーマでもある。呉米森は映画のなかで一つの役柄としてこのゴダールを使っていて、だいたいのところゴダール監督の意にそっているということがみてとれる!ゴダールのセンスは社会の風刺や人生哲学の言葉をユーモアに交えたもので、それは《給我一支猫》という映画の精神にもよくみることができる。

高達=ジャン・リュック・ゴダールのことだと思います。

この人↓

http://cinema-magazine.com/old_page/kyosyo/godard.htm

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2006年11月15日 (水)

あらためて

昨日、寝てしまいました。続けます。

【美学と哲学のジャズ・セッション・6】

《給我一支猫》の主人公黑樹は、都市を放浪して自省生活をする一人のひきこもり青年である。彼はぜいたくな浪費生活の末、今は落ちぶれて台北市のかたすみで生きている。きちんとした仕事もせず、考えることの他は何一つとりえの無い今時のニヒリストである。彼が外の世界と唯一つながりがあるのは、2000年が世界の末日になるというサイト後樂園だった。だが彼はそのサイトに属して会員になることを望まなかった。さもないと、死の虜から救われなくなるからだ。

主人公黑樹以外では、職業もなく、する事もない都会周辺のインテリ・グループが登場する。映画の中で彼らは健康保険などに加入せず社会にも国にも何ら貢献していない。それゆえ、密かに浮浪者を捕殺する死のブラックリストにのっているのだ。このような人々は数少ないが、いつも定期的に集会をひらく学習会という形をとっている。彼らの関心は資本主義社会への批判それだけだ。ただしそんな思想的活動が社会的に認められるわけがなく、かえって彼らが時代にそぐわないということがはっきりするだけなのである。

いや~苦労するなあ。めっちゃ言葉がむずかしい。それを何とかわかりやすい言葉にするのが大変。

しかも、ここまでで半分ちょいぐらい。面白い内容ではないかもしれないけど、あの難解な映画がちょっとわかりかけた気がする。

今しばらくお付き合いください。

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2006年11月13日 (月)

なんたって北海道

今週の堂本兄弟はタカ&トシがゲストだった。やどんはこの二人が北海道出身だと初めて知った。まあ、この二人自体よく知らなかったんだけど。で、曲が松山千春の「恋」。で、SAXが武○真治。もう、北海道のオンパレードですがな。

何でもトシさんのお父さんが松山千春のマネージャーだったそうな。この話でこの日一番の「ええーっ!?」をとってたんだけど、松山千春はね、やどんは高校生時代を知ってるよ。一、二度口もきいてるし。

「ええーっ!?」   とはならないね、やっぱし。

何にしても北海道人のやどんが、速攻タカ&トシのファンになったことは言うまでもない。はい、きのうの続きです。

【美学と哲学のジャズ・セッション・5】

《起毛球了》ではこの虚無感が恋愛や官能と入り交じっているのでわりあい親しみやすく、観衆は比較的容易に呉米森の世界に入っていくだろう。もっともそれは、呉米森が俳優の細かい動作や情緒をかなりうまく捉えているからだ。

彼の映画のなかで、演者はある種の生命的質感と、情緒的な感染力を持つ。一点をじっと見つめる・口をとがらす・頭をゆらす・体を動かす・・・なかなか得がたい感触である。呉米森は映画において視覚と触覚を交換することができるようだ。彼の他の映画でも俳優は観客にその感触をいだかせている。

《起毛球了》におけるこの感触は、《給我一支猫》に至るとさらに流離性も加わってくる。第二作を撮影するにあたって、この新人監督はこう言っている。僕は二度と同じことはしない、という驚くほど強いコンセプトを持っている。すでに《起毛球了》で描いた愛のテーマを通して、観た人はこのような感触を知っているはずだ。今回は、ふつう人は進んで興味をもたないが、生命の本質について考え探るというもっと大きなテーマに心をくばった、と。

難しい文で迷っているうち寝てしまいました。

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2006年11月12日 (日)

アマチュア魂

9月にジョシュアを観たっきりライブにいってなくて、約2ヶ月ぶりに行ったのが友人のチャリティーコンサート。この友人はクラリネットを、お嬢さんはフルートとサックスを演る。友人は主婦だしお嬢さんはOLで、地元のアマチュア吹奏楽団に所属している。アマチュアといっても彼女たちは中学部活からずっと続けているので、友人などは30年のキャリアになっちゃう。他のメンバーもにたようなもんだから、アマといってもまずまずの演奏会になるんだよね。

世界的なプロと地方のアマとの落差はそりゃあ比べものにならないけど、アマにはアマの楽しみ方がある。ソロで高音が出なかったり、パーカッションがずれたり、実はこういうところが楽しい。ステージから「さあ、一緒に楽しんで」オーラが会場いっぱいに満ちて、最後には声をだして歌ってしまう。舞台はもちろん一段高いけど気持ちはみなおんなじステージだ。

BJのようなクラブバンドも実は似ている。ただし、それに逃げてちゃダメ。とくに高いお金をとるワンマンライブとかはね。だからSTBのライブは失敗なのさ。まあいい、訳を続けます。

【美学と哲学のジャズ・セッション・4】

――――役者の動きと感情表現がうまい(P6の小見出し)

「起毛球了」から「給我一死猫」まで、この二編には 生はむなしく死は永遠 という共通したテーマがある。呉米森は実生活を土台として、しなやかに はねるように 甘美に おもしろ可笑しく味付けをしてこのテーマに迫る。また同時に感傷的で重く、鬱々とした内面もひそませている。

それゆえ美学と哲学との二重奏だといえるのだ。彼は愛とか命とかを美しい音楽で描き、存在とか死とかを哲学的な考えをもって描いている。

「起毛球了」のなかでは 甘美な愛におぼれると、やがて人生の無常と愛のむなしさから逃れられなくなってしまう。「給我一支猫」では、死への意識が現実社会への強烈な批判となり、そして仕事や人生に対する虚無感につながっていく。(つづく)

ここまで読んで気がついたのだけれど、この 韓良露 という評論家のいう哲学とは「実存主義」のことだね、きっと。ここでいう「虚無感」は「不条理」 を連想させる。

あ、こむずかしくなったね、反省。

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2006年11月10日 (金)

LOVEDEATHといえばDEATHNOTE

どっちも DEATH がついているので、やどんの頭ん中ではいっしょくたになっている。DEATHNOTEは、かの藤原竜也クンの主演映画で、ヒットしているんだって。この前編をTVでみて、う~ん、原作を知ってる身としては主人公”月(ライト)”のイメージと藤原君にギャップがあるんだけど、それなりに原作の雰囲気が出ていて面白かった。

と言うわけで続きを。。。

【美学と哲学のジャズ・セッション・3】

私は映画ばかり観ていたので、呉米森本人は楽器を演奏するはずがないということを知らなかった。実際、(映画の)彼らのような音楽を演奏するジャズメンはたくさんいる。《起毛球了》と《給我一支猫》の中で呉米森がストーリー説明につかった方法は、ジャズにおける「Jam」セッションのセンスに満ちたものだった。

ストーリーは演奏に集約して表現され、なかでも叙事的なテーマは何度もくりかえして出てくる。たとえば《起毛球了》では、愛をめぐるトラブルとむなしさを毛玉が象徴しているし、《給我一支猫》では猫が虚無的で荒んだ存在の代表として描かれている。

そんな小さな毛玉や猫の工夫がすでに視覚的・心理的なのだ。JAZZYなメロディは繰り返しでてくるがどれも即興的な音だ。毛玉が愛人のベッドで糸くずとなり部屋のチリとなって、灰や煙のように飛び散ってしまう。そして猫は宅配便のマークにもなれるし、死んだ妹の霊魂となることも出来るのだ。(つづく)

シンボライズ(simbolize) っていう英語があって、物事をシンボルとして象徴として表現することをいうらしい。

呉米森はこの方法を使って映画を創るんだね。だから、ストーリーは分からないし、なにが言いたいのかもわからない映画になるんだ、とこの文を訳しながら気がついた。

何となくもう一度観れば もっとあの映画が理解できそうな気がする。

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2006年11月 9日 (木)

IZAM、再婚!

めちゃ兄さんがTOKYO EYESで共演した吉川ひなのちゃんの元夫IZAMさんが吉岡美穂さんとやらと再婚するそうな。IZAMさんはLOVEDEATHに出演していたよね。それよりも「♪すみれ、september love~」で有名か。吉岡さんはよく知らない。でき婚だそうで、何にしてもめでたい。

兄さんの共演者って、でき婚が多いね。兄さん自身はどうなんだろうか。どうでもいいや、訳の続きです。

【哲学と美学のジャズ・セッション・2】

さて、新人監督のデビュー作である《起毛球了》。その創造力、表現力には驚かされる。呉米森の映像センスには、ある種の正確さ、明亮さ、躍動感があり、即興音楽を聴くような感じがする。その独特の音楽性はまっすぐに《給我一支猫》へとつながっていく。この二編の映画をみて、私はちょっとしたミュージカル映画をみたような臨場感を覚えた。その音楽性は映画での音響効果からくるもので、映像の言葉そのものといっていいだろう。

呉米森のカメラワークはぼやけることを嫌う。ズームアップから移動へ、カットとカットの間は飛び跳ねるようにつながって行き、あたかもメロディとリズムを思い起こさせる。人がこの映画を観たとき、何を言いたいのか、何を表現しているのかさっぱりわからなくても、感情を激しく揺すぶられるだろう。

このようなことは私が以前経験した現代清涼ジャズ(Cool Jazz)の感覚によく似ている。この音は、解放と警戒を、感情の高まりと思考の冷静さを、私の体に波長となって流してくれる。呉米森の映像はまさしくこの波長と同じものである。眼の網膜をとおして、音楽のリズムが映像の電気的刺激となって、私たちの体の奥深く言葉にならない力の中心に響いてくるのだ。

漢字の多い文章で、読む人も疲れるだろうから少しずつ紹介します。

ところで TOKYO EYES またみてみようかなあ。この映画での兄さんは、地上から1.3センチほど浮いています。主人公Kは兄さんの半身ともいえるキャラ。呉米森監督もこの「東京之眼」で兄さんを見そめたんだっけ。武○真治の代表作といっていい、名作。

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2006年11月 7日 (火)

映画評論家なんて、きらいだーー!

さて、いよいよ本文に入るんですが・・・・

初めに一言ことわっておくけど、初めの評論家の文は長ーいよ。しかもつまらないし、むずかしいし。ここの所とばそうかとおもったんだけど、呉米森は一冊の本としてレイアウトしたんだろうから、作者を尊重して原作通りに進めます。

さて、4ページに目次があります。

目次

序1. 美学と哲学のジャズ・セッション /韓良露  5

序2. ボヘミアン的少年時代 /何瑞珠        9

序3. Lunatic Poet(月から来た詩人) /聞天祥  13

ストーリー                          16

脚本                             108 

撮影日記                          146 

付録   Lylic (歌詞)                 174,

そして5ページから本文が始まります。

【美学と哲学のジャズ・セッション・1】  韓良露

 2002年9月、私は金馬奨の審査員をまかされ、当然のことだが色々な監督の作品を観ていた。既によく知られて評価の決まった映画が何編もある中で最も目を見張ったのは、私の知らなかった呉米森作《給我一支猫》である。

 後になって知ったことだが、私は数年来外国旅行をしているにもかかわらず、呉米森の第一作《起毛球了》があちこちで好評を博していたことを聞き逃していた。映画評論家の曾緯禎は私に、最初に《起毛球了》を観たひとはハッと輝くような感覚におちいるだろう、と述べている。それは呉米森が今までの邦画にはない独特のビジュアル感覚で表現しているからだと言う。彼女は個人的には《起毛球了》より《給我一支猫》のほうがさらに気に入ったらしく、私に《起毛球了》のDVDを借りて、真っ先に比較してほしいと頼んできた。

長いからここで切るね。

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2006年11月 6日 (月)

日本にこだわる

前回の続き、裏表紙みかえしの訳です。

《給我一支猫》 簡介

35ミリ/96分/国語(台湾語)/2002

中央電影公司 ・ 菱田電影作品

武○真治・張孝全・テリークワン・王暁書

張琉晨・北村豊晴  出演

・2002年金馬奨 美術設計最優秀賞、映画音楽賞ノミネート

・2002年 Friboug International Film Festival

    【審査員特別賞】

・2003年 Fabio International Film Festival

       【観賞出品】

・・・・・・

「給我一支猫」。この映画には台湾社会の荒れた現実と、監督の狂おしいほど幻想的な愛情とが映しだされている。 今まで映画の中で一度も楽器演奏をみせなかった武○真治が、葬列の楽隊の一員として登場する。彼は一日中、自分は日本人から生まれたのだという幻想をみている。誰一人付き合う人もなく、だらだらとした日々をすごしていたが、訳の分からない不吉な事件がたて続きに起こりはじめる。

一人の日本びいきの男性をめぐる物語――黑樹。

自分の前世が日本人ではないかと疑っている黑樹は、、死んだ恋人の形見を整理していて彼女が可愛がっていた猫をみつける。そしていなくなった猫をさがすうち、次第に自分自身をさがし求める旅となっていく。

この映画では、愛や命、存在の理解とむなしさ、哲学や死に対する意志、深い知識などが描かれている。現代の論理的で現実にそった手法を使いながら、映画の持つ強烈な視覚的刺激を通して、大都市が隠し持つ寓話の世界を見事につかんでいる。

本書は映画作品の内容を精選したものである。呉米森監督の映像は、まさに美学と哲学とのジャズ・セッションのようだ。

本書の主な三つの内容

1.故事 (ストーリー)

2.劇本 (脚本)

3.拍撮札記 (撮影日記)

呉米森が誰を主役にするか迷っていたときも、台湾の俳優をつかうという考えはなかったみたい。あくまでも日本人にこだわった監督だけど、何か理由があるのかな。

少なくともめちゃ兄さんは、いたくお気に入りだったね。日本文化に対する興味も大きかったとおもう。

次回は本文に入ります。

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2006年11月 5日 (日)

ほとんど写真集ですわ

この本は178ページ、その半分は写真です。

共演者の写真もありますが、めちゃ兄さんの方が数多いです。だから文が読めなくてもこの当時のわりと素に近い兄さんの雰囲気が味わえます。今のビジネス・スマイルなんかちっとも無い、内向・不多話の兄さんです。

連休中、家をあけていたのでブログかけませんでした。まず、表紙の見返しに監督と映画の紹介が簡単に乗ってるので、ここから訳を。

↓これ

Catmigi  Cathidari

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《作者簡介》

呉米森 

監督・編集

・ニューヨーク視覚芸術学院( School of Visual Art )、ニューヨーク市立大学( City University of New York )映画制作BFA、研究所。

・本国の「跨棹的一代」( The Beat Generasyon )に所属する詩人。

・金斯?( Allen Ginsberg, 1926~1997 )と実験短編映画《梵谷的耳朶》を共同製作。美しい部分が大学の文学選集に多数とりあげられて、映画科の教材になっている。台湾のインターネット世代では「underground= アングラの伝説」となる。

・数年前に帰国、その後何度もつまづきながら、第一作映画「起毛球了」を完成させる。釜山映画祭には出品しなかったが、台湾の千禮年映画界ではよい評価だった。Friborg などの国際映画祭でも好評で、さらに日本市場にも進出し(日本名:恋愛回遊魚)、台湾の非商業的な映画界にショックを与えた。

・「給我一支猫」の撮影にあたっては、映画会社との間で理想と現実のギャップからトラブルがおこり、創作上のいろんな面で影響が出た。しかし呉米森はできるだけ構想をつらぬき、この映画は彼にとって運命的な一編となった。

呉米森は長い間ニューヨークに留学していたらしいよ。なんか北村龍平を思いだしてしまう。北村さんはオーストラリアだったっけ?それはそうとLOVEDEATHの上映がきまったね。舞台挨拶もあるというけど、やどんは行けません。行ける方、しっかり見てきてね。

呉米森監督 ↓ この一番下の写真

www.netlaputa.ne.jp/%7Eurakawat/tometome/kinba2002/kb04.html

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2006年11月 1日 (水)

一匹、猫をください

1.表紙

「給我一支猫」の邦題としてよく「猫をお願い」になっているんだけど、これは同じ邦題の韓国映画があって、それと混同してしまうよ。この本では「一匹、猫をください」と副題がついていて、英題は「dRop me @ cat」となってるんだけどね。

呉米森 作品 a film by Mi-sen Wu

故事(ストーリー)、劇本(脚本)、拍撮札記(撮影日誌)

2,裏表紙

その「一匹猫をください」と大きくあり、その下に三人の評論家の劇評が2,3,行ずつ。

「ヘイ、ようこそ、このバンドへ・・・・・」

◎呉米森は命の重さをよく知っている。人生とは 生老病死 が一本の線となって天国と地獄をつらぬいているからだ。この映画の主題は死に対して高い意識と知覚を有している。呉米森は子どもの遊びのような手法を採用してはいるが、たくさんの大人の観衆が呉米森とともに童心に還って、映画の遊びの中にひきこまれてしまう。

―――――――韓良露(映画評論家)

◎墓地にあっても美があり、洞窟にあっても真理がある。一人の日本人俳優の身の内に、台湾の姿をみた。

―――――――聞天詳(映画評論家)

◎この映画には不思議な趣があると想像できる。殺人や暴力はなく、大きな興奮も癒しもない。またすごく感動したりびっくりさせる様なこともない。・・・・・ただ、黑樹が最後にこの世界から告別するときに魂をゆさぶられるのだ。

―――――――何瑞珠(映画評論家)

この三人の評論家の文は本の中にあるよ。でもすご~く長い。。。。鬱

↓やどんの本の表紙と裏表紙

Cathyousi_1

Catura

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2006年10月31日 (火)

「給我一支猫」の本

さて、いよいよこのブログの本来の目的に着手します。

そもそもめちゃ兄ファンに、この本を紹介することが目的だったのよね。

「給我一支猫」の本、作者は呉米森、もちろん台湾語でかかれています。これ↓

http://www.kingstone.com.tw/Book/Book_Page.asp?id=2019870063372&actid=booksi

やどんが買った本は違う表紙で、これはその後新しい表紙になったもの。中身は同じだと思うよ。

で、同じ本を買っためちゃ兄さんファンのために、和訳をして差し上げよう(えへん)、と思ってたちあげたのがこのブログなんです。ついでに、今までストックしてた新聞記事を紹介してきて、今に至ると。

何人かの友人知人は共同購入したのでお持ちと思います。もし、興味を持って手に入れたければ、○善などの洋書とりあつかう書店で注文されるとよろしいかと。三ヶ月ほどかかるけど。

できるだけ間をあけずに更新していこうと思いますが、なにせ訳しながらですので遅々として進まない時があるやもしれません。そんなときはどうか長い目で見てやって下さい。

では、次回より 表紙、裏表紙の順に和訳していきます。

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2006年3月30日 (木)

したっけ、いこか

で、「Drop me @ cat」 ってどんな映画?

という話だが、これ↓

http://www.roc-taiwan.or.jp/film_festival/

めちゃい〇のお兄さんが、めちゃい〇ぐらいしか

TV出演しなかった頃。 2002年の撮影。

監督は 呉 米森 で台湾気鋭の新人みたい。

じきじきのオファーだったらしく

そのあたりは 次回、台湾新聞記事にて

紹介します。

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2006年3月29日 (水)

したっけ、いこか

人知れず思いっきり 書いていきましょ。

まずは知る人ぞ知る、めちゃい〇のお兄さんが主演した 幻の台湾映画

その名も「drop me @ cat」! そのノベライズ(北京語)の和訳をボチボチと。

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