2009年3月 1日 (日)

身毒丸

なかなか落ち着いた時間がなくてブログも放置していたらログアウトしてしまった。

パスワードがわからなくなってしまい、さらに更新をなまけてしまった。

しばらくぶりに開いたら、こんな最果てのブログ、それもいつ更新するかもわからないブログを毎日アクセスして下さっている方が結構いてくださる。

もともと「給我一支猫」の本を紹介するために開いたブログだったから、ストーリー紹介が終わったら閉じようかと思っていた。

いつのまにか日々のグチのほうが多くなってしまい、カテゴライズして整理しなければならないんだけど、どうにもメンドい。気が向いたら「猫」の部分だけまとめようかな。

検索ワードでは驚くことに「身毒丸」でココに来た方が今だに一番多い。びっくりcoldsweats02

古いのは削除してしまったから、たいした記事は残ってないんだけどね。ただ皆様からいただいた「身毒丸」のコメントは非公開で大切に保存しています。某役者ファンらしき脅迫めいたコメントなどは非公開のまま削除してしまったから(失敗!よく読めばよかった)このコメントだけはどうしても読めない。RSSを使ってもね。読んだ人がいたとしたらどうやったのかしら?

もともと寺山修司を読んでいて、蜷川さんの名前に引かれて借りた「身毒丸 武田版」のビデオ。これが始まりだったから私はあくまでもこの作品自体のファンなのです。

寺山はもちろん、古典も 折口信夫も 岸田理生も できる限り原作を読み込み

ビデオ・DVDは武田版、藤原版、天井桟敷版を繰り返し観ました。

知ったのが遅かったので唯一観劇できたのは「身毒丸 復活」だけ。

蜷川演出では「コリオレイナス」は生で観て、あと「天保」やらシェークスピアやらはテレビで観ました。

その結果、蜷川さんはもういいやって思いました。

「復活」の演出で 手を抜いたような印象を受けたのが致命的かな。今でも思う。どうして子役を二人使わなかったのかなって。

藤原君の身体が大きくなりすぎて、他の演者とからんだ時不自然になってしまう。だから「せんさく」は子どものときと中学生になったときと別々にして欲しかった。

児童虐待についても以前よりずっと厳しい社会になってきている。役者さんや社会の変化にもっと配慮して欲しかった。

リックマン他の録音をそのまま使ったのも手抜きとしかいいようがない。

ポスターだってあれでいいの?文学のかけらも感じないよ。藤原君にはもっといいアングルがあるし、白石さんは見上げた感じの表情が美しいのに。

大切にしてほしい作品だったのになあ・・・・・

最近元気がないから 少し芸能界ネタでも続けようかなあ

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2008年11月26日 (水)

ミュージカルってさ

小康状態の母に感謝しつつ、行ってきました東京。

半分以上は一人暮らしの娘の家事で終わったけど、21日と22日の昼「エリザベート」観てきました。

2006年の時もそうだけど、めちゃ兄さんのファンだから観劇したようなもの、もともとミュージカルはどうも肌にあわない。特に宝塚テイストが入るともう絶対からだが受け付けない。だから今回もライブほどには心浮き立たたず、しかし兄さんのがんばりを観なくては、くらいの気持ちだったんだけど・・・・

いや

それが

おもしろかったんだよ、エリザベート!!

2回目だと作品全体観る余裕が出てくるもんだね。前回全く眼に入らなかったルキーニの語り口や行動をみてて

ルキーニのエリザベートを見る眼は、現代のヨーロッパ人の眼と同じってことに気付いた!!

エリザベートは、つまりハプスブルグ家、つまり中世を支配した絶対王政、いうなれば自国の歴史。それをルキーニという代弁者を通してあざ笑っているんじゃないのか!?もちろん大いなる自戒と悔いをもって、ね。

ものものしい舞台設定、豪華なキャスト、お金と時間をめいっぱいかけて じぶんたちの過去を自嘲している。

こいつぁ、恋物語なんてとんでもない、めっちゃくちゃ面白い風刺劇じゃないかぁ。

さすがはシニカルなヨーロッパ人!大好きだ―、このセンス!!

少し前

「徹子の部屋」にルキーニ役の高嶋さんが出てて、「このミュージカル、ヨーロッパではすごい人気なんですってね」「はい、ロングランで・・」というやりとりをチラ見した。

徹子さんは長い間アメリカにいてブロードウェイ・ミュージカルにとっても詳しい人らしいんだけど、徹子さんの言葉の裏に「アメリカ人にはわからないでしょうね」っていうニュアンスが含まれているような気がして、これも可笑しかった。

これ、ぜったいアメリカではヒットしないと思う。アメリカって王国の歴史をもたないし、征服者のまんま今もつっ走っているし。

ヨーロッパ以外では日本で公演されたってのが嬉しい。宝塚版に脚色されたにしても、死神と皇妃との禁断の恋の話だったにしても。

う~ん

兄さんはラッキーな人だなあ。そして聡明な人だ。あちこちのコメントみても、きちんとトートの役を把握しているよ。歴史という大きな流れを「男の眼」で俯瞰してみてる。その上で架空のキャラ・トートを独自に創り上げている。やどんにとって完璧なトートだった。

またビジュアル ガン見するの忘れた

しかも 歌もよく聴いてなかったし

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2008年4月14日 (月)

おおじさまっ

そりゃ、もちろん観てきましたよ、「とらいあんふ・おぶ・らぶ」。めちゃ兄さんファンですから。

お話しはちょっと前半がわかりずらくて、せっかくの夢の園が本当に夢見そうになってしまった。セットはとても工夫していたけど、この時間の長さにはこのセットだけじゃ少々無理かも。

王子様は申し分のない王子さまだったし、お姫様も次女も叔父叔母も、アルルカンも庭師もよい役者さんだった。

問題は観客(→私)。笑いどころとその楽しみ方がいまいちわっかんねー??下ネタ好きだから別に多くてもかまわないんだけど、それとこのオトメチックな世界が やどんの中でどうしてもかみ合わない。

フランスの原作ってことはフランス文学ってことで、あんまり得意じゃないよーbearing イギリスの笑いはウイット、アメリカの笑いはギャグ、日本の笑いは含み笑いなどと、無理矢理こじつけていくと フランスの笑いは、あれかな?”エスプリ”ってやつ?フランスって国は大統領の公式訪問に愛人を同伴しても世論が騒がない国だ。男女の問題にはものすごく寛容な国らしい。フランスの宮廷文学なんかエロチックなのが沢山あるそうだ。

っつーことは、そんな路線で観ていけばいいのかい?でもってエスプリだから、お洒落な会話を楽しむことができれば、もっといいんだろーなー。

むむむ

ただでさえ恋愛ものは不得意なのに、これは難題だ。でもまあ、あんまり考えないで可笑しかったら素直に笑い、ステキだったらため息ついて楽しめばいいんだと結論。

初演だということだから、何度もくりかえすうち演出もスッキリしてくるだろうし、兄さんの緊張も溶けてくるだろうし。歌はうまくなってたから観客が笑いのツボを心得てウケてやれば、もっと化けると思う。

夜 堂本兄弟でサックス吹きの兄さんを見た。しっくりくるなあ、やっぱ。

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2008年4月12日 (土)

観ました 身毒丸 復活

9日夜の公演、楽の前日観てまいりました。

もう、終わった公演だし、2度と復活はないだろうから、あれこれ言ってもしょうがないんだけど。。。でも、やどんなりの総括と言った意味で感想かいてみます。

当事者も観客も何というか「今までごくろうさん、ありがとね」みたいな、内輪の慰労会のごとき公演だった。(無関係で部外者の私に言わせれば、です)。だから観劇の感想もファンの「素晴らしかった」ばっかりだし、スタンディングオベーションにいたっては内容の善し悪しよりも「最後のエール」的な意味合いも大きかったように感じた。実際、後ろに近い席だったわたしのまわりは立たない人も多かった。これを称して「絶賛」というには、ちょっと違うかな、と。

で、生で観劇した感想―――

一言でいえば、蜷川先生やりすぎです ということ。説明過多で演出過剰なのがやどんにはとっても邪魔だった。もう少し観客の想像力を信じてよ、と思うこと多し。武田版から藤原版ファイナル、そして復活へと進むたび、演出も演技もくどくなってきている。これはワシントン公演にむけてということと、昭和の時代を知らない客層にもわかるように、という意図もあったんだと思う。

でも、それは原作を著しく損なうことであり、寺山どころか岸田からさえもどんどん離れていくことでもある。視覚的演出に凝るあまり、あれこれイジリすぎて本来のテーマを見失ってしまったように感じた。

▼具体例①

「髪切り虫、でてこい!」っていうと巨大な髪切り虫のフィギュアが・・・・ああ・・・

この地獄におちた場面は身毒丸が”悪夢にうなされて夢精”しているか”妄想のもとに自慰行為”をしているかを抽象化したものだと思う。ろうそく、乳母車、子を求める母など、この地獄のシーンは最も観客の想像を刺激される名演出である。それなのに、突然現れたこの具体物がすべての夢想をぶっ壊す。。。。出てこんでええわいっ!

▼具体例②

「からっぽの爪の小箱」――これもいまいち意図がわからん。というか撫子のとらえ方がだんだん違った方向にいっていないだろうか?「何故、愛する身毒に呪いを授けねばならなかったのか」、それはこの岸田版で最も重要なテーマである。「家の呪縛」「母になることへの強い執着」「それを裏切った身毒への逆ギレ」「ただの欲求不満」等々、やどんなりにいろいろ考えたんだけど、すっきりとしない。「老いる自分を見せないために目をつぶす」っていうセリフも無理にとってつけたもの。

撫子に妊娠の経験があって子を成せなかったんなら解るんだけど。ここは武田版のように「いとしい我が子のせんさくのため」としたほうが、わかりやすかったんじゃないかな。

「もういちど僕を妊娠してください」

これ、寺山の珠玉の言葉だよね。この「もういちど」って部分をしっかり生かしてほしかったのね。そうしてはじめて「もういちど、もう2度、3度・・・」という撫子のセリフが意味を持つのだから。「からっぽの小箱」から言えることは撫子自身が身毒丸よりも早く、すでに静かに狂っていた、ということだ。(と、いうことにした)

他にもあるけどしつこくなるから止める。

▼役者さん

藤原君はきちんと少年だった。ただ、一人のときはわからないけど、他の役者さんがからむと体の大きさが違和感を産む。せんさくの陵辱の場面なんか2倍位大きいのでまるで幼児への虐待にみえる。撫子との抱擁もなんだかおっ母さんがぶら下がっているようにみえる。あと声が・・・・楽の前だったからか声がつぶれかかっていた。少年の声じゃなく、大人の声がつぶれているので青年を通り越しておじさん声になってしまっていた。

白石さんは逆に声が前よりよかった。以前のあのどなりつけられているような野太い声がなくなって優しい母の声だった。ただし身体能力の衰えはそこここに見えていて、身毒丸を探すときの小走りは見事だが臀部がどうしても残る。でもきれいだったよ。

惜しむらくはもっと他の役者さんも生かして欲しかった。特に蘭さんと石井さん。蘭さんの怪しさも石井さんの毒もすっかり消されてしまったような気がした。

▼もう二度と復活はないでしょう。

というか、復活すべきじゃない、とやどんは思う。理由は「時代に合わなくなってきた」から。子どもをめぐるおぞましい事件が現実に起きている昨今では母子相姦も虐待もシャレにならない。武田版の時からせんさくと身毒丸のからみに不快感を覚えていた。だってリアルに子役なんだもの。15才当時の藤原君のフルヌードもやっぱりやどんには引っかかる。中途はんぱにリアリティをもたせることで芸術が悪趣味に変わりはしないか?昭和初期の「家」とか「家長」とかの呪縛も今の人達には絶対通じないし。

「身毒丸」はそろそろ本来のアングラの世界にそっと返すべきだと思う。そう、イケナイ大人達のあやしい世界、「天井桟敷」席に。

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2008年4月 8日 (火)

いよいよ、明日

2,3日東京に行く予定。

目的はいろいろなんだけど、その一つは「身毒丸 復活」を観ること。武田版も藤原版も

DVDの観賞しかかなわなかったから、とても楽しみです。

ワシントンでの上演にかかわって検索していたら、見つけた!「天井桟敷版 身毒丸」のビデオ。↓

UPLINK

未だに販売していたとは知らなかった。即、購入。ビデオで5800円なんて・・・しかも暗いし、画質悪いし。それでも、もうみることはできないと思っていたから嬉しい。

そうです、こちらがほんまもんの寺山修司です。岸田理生脚本とは全く別の、これぞアングラ!といえる唯一の身毒丸。

蜷川版しか観てないやどんの目には、最初難解に感じた。でも、原作を読み、J・A・シーザーの音楽を聴き、そしてこのビデオを繰り返し観ると、「寺山の身毒丸」のほうが親しみを感ずるようになってきたから不思議だ。

岸田・蜷川版はもっとわかりやすく、大衆的にというねらいのもとに再構築したのだろうが、今みても不自然な場面や無理にこじつけたような場面も目に付く。逆に?と感じてしまうのだ。それがこの天井桟敷版には無い。難解のようにみえるが実は一つ一つのエピソードが自然につながっていき、やっぱり本家本元はこうなんだと納得してしまった。

「説教節」「三文オペラ」「見せ物小屋」―――こういったキーワードが実にしっくり来る。音楽も宮川さんより、ずっと乾いていて知的な感じ。そう、作品全体も知的な感じ。セリフも演技も今は使えないようなきわどさを持っているにもかかわらず、妙な気品がある。

今日はこっちのCD聴きながら、明日に備えることにする。↓

身毒丸 [12 inch Analog] 

J・A・シーザー 天井桟敷「身毒丸」

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2008年2月19日 (火)

「悲別」

「北の国から」という有名なドラマは「北の国」の住民であるやどんにとってむしろ苦手であった。どうも北海道というのをことさら持ち上げすぎているような気がして。

倉本聰 っていう演出家が北海道・富良野で「富良野塾」という演劇集団を立ち上げたのはだいぶ前だよね。今はその卒業生が「富良野GROUP」として演劇活動を続けている。

ここまでは情報として知っていた。でも「北の国から」に対する誤解から、かれらの舞台はあんまり興味が持てなかったのね。なんという不覚!

彼らの舞台「悲別」を観た。

ただただ感動!

役者が演技をする、とはこういうことだ。

演技がうまい、というのはこういう役者たちをいうのだ。

舞台をつくる、というのはこういう集団があってできるのだ。

身毒丸について最近考えることが多かったけど、これは蜷川さんの舞台とは対極にある舞台だと言える。蜷川さんの舞台は、WOWOWなどのTV、DVDでみることしかできなくて、生の観劇は「コリオレイナス」一度だけ。でも、どれをみても「演出家」の存在が役者の前面にでてきて、正直げんなりすることも多い。派手な衣装、舞台装置、たくさんのお金がかかった豪華な料理だ。だがそれも、客をよぶだけの演技のへたなタレントで一気にぶちこわす。「コリオレイナス」を選んだのも素人サンを使ってなかったから。端正な出来でいい舞台だったと思うけど、深い感動というものはなかったなあ。

「悲別」は「昨日、悲別で」「今日、悲別で」と同じ系列のもので、カナダ、ニューヨークで絶賛を浴びた舞台だという。当時のニュースで知っていたけど、実際に観劇して納得した。派手な装置も何もない、だが、ひとの力でそれ以上のものを表現する。決して舞台からは演出家の顔が見えない。ただ見えない糸で役者をあやつり、役者は演出家を深いところで理解し、尊敬し、その放たれた見えない糸に結束する。

私は演技についてはくわしくないので「笑うこと」と「泣くこと」が自然にできるかどうかで判断する。また速い動作よりゆっくりした動作がうまいかどうか、ということも観る。そして観客の目が届かないところでも演技してるかどうか、でも判断する。どれをとっても非の打ち所がなかった。裏方も役者も見事に訓練された完璧な舞台だった。

「富良野GROUP」

役者のだれ一人名前も知らぬ。

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2008年2月12日 (火)

ワシントンの身毒丸Ⅱ・後編

ワシントンポスト紙の記事、前半読むとちょっと不安になるけれども、アメリカ人ならこんなもんかもね。続きです。

過去と現在とをつなぐ道とは一体どういうものなのか、もしそれを我々が知りたいと思ったなら”身毒丸”がより深い理解へと導いてくれる。劇の実際は変化に富んでいて、性的な見せ場は若者が撫子とめぐりあったときに一気に沸き上がる。撫子とは彼の父(Toru Shinagawa)が亡き妻のかわりに買った女である。

たくさん連れてきた女性たち、プログラムによれば苦しい生活をしいられてきた”旅芸人”とよばれる女性たち、その中から撫子が選ばれるシーンは特に不気味で素晴らしい。小さく仕切られた木製の建物には車輪がついていて、それぞれの仕切りの中には中年女が座っている。けばけばしい抽象的な刻印のついたマスクをして、貧しい身なりで。(この刻印は、プログラムによれば、日本では伝説となっている主婦の権利を暗示するものだそうだ)。

”身毒丸”がこの世とあの世を瞬間的に移動するシーンがある。その夜は催眠術的な二つの局面で構成されている。Fellinieーsque=フェリーニ風のパレード、小人や道化師、浮浪者、みやげもの売り、そして踊り子たちが舞台の端まで進んできてはまた引っ込んでいく。はっきりわからないが、”身毒丸”の想像による肉体的な苦痛はゆううつの中に押し込まれ、このような人間性にふちどられた空想世界にも苦悩が住み着いているようだ。

Ninagawaは目もくらむようなファンタジィのシーンと柔らかくふちどられた家庭的儀式とを交錯させる。それは、日本の伝統的な家族があるがままの姿に変わっていくことで行われる。すばしこい一団が、無数の基本となる部分を身毒丸の家の隠し部屋へ巻き込んでいく。それらは後に再び分けられ、街中たくさんの別な家庭の部屋になり、この少年よりずっと幸せそうにみえるのだ。

貪欲な案内人、Fujiwara and Shiraishi はそっと丸く組み合って背中を引いて鞭を打つ。傷つけるように、また慰めるように。(Akira Miyagawa の編曲による強烈な伴奏はときどきメロドラマ風のアクセントになりすぎる。)演奏中の Sumio Yoshii による照明とNobutaka Kotake によるセットは傑出している。NInagawa と彼のstarたちは、われわれが手の届く範囲の背後に残るような、色彩と定義を与えてくれる世界にむかって長い道のりを歩み続けている。

身毒丸 寺山修司、 脚本 岸田理生、 演出 蜷川幸雄、 舞台装置 リリー小峰、井上政弘、 振付 前田清美、花柳金之助、 協力 中曽根幸太、石井謙一。 約90分。ケネディセンター、tel・・・・hp・・・・

ソース:ワシントンポスト 

好意的な評だと思う。よかった。最初はびっくりしたんだろうね。

これにコメントが二つあった。現地のアメリカ人のファンかな?やさしい英語だから読めばわかるよ。

おかげで堂本兄弟 みのがした・・・悲しす

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2008年2月11日 (月)

ワシントンの身毒丸Ⅱ

ワシントンポストの比較的冷静な記事みたい。長いので半分ずつ。↓

http://tatsuyaphkp.wordpress.com/

舞台劇における大胆な魔術師たちの中で、日本の監督 Yukio Ninagawa は確かに世界的クラスに位置している。”ShintokuーMaru”は、 ろうそくに埋もれた乳母車の世界、長い棒からしたたり落ちたクラゲのような地下の世界をさまよいながら、若き主人公というのにそぐわない気味悪い風貌で、悪夢のような異様な言葉をまとわりつくようにまき散らす。

Ninagawaの見せ物に対する尊敬すべき才能は、今夜、アメリカのケネディ・センターでの他にはみられない”見毒丸”の初興行の上に存在する。身毒丸は一世紀前の日本の物語を土台にした寺山の脚本を、岸田理生が脚色したものだ。センターでのJAPAN Festivalのオープニング・アクトとして、この劇の犯行現場がオペラハウスだったということは幸運である。なぜなら規模の大きさや伝わる感情の強さ――演劇における境界線のところ――が観る者の心をグランドオペラの強烈な風にまきこんでしまうからだ。

私は身毒丸の視覚的な程度は十分であったと強く言いたい。しかし、イントロの30分間で私は、自分がアクセスして得た以上の情報が欲しいという強い欲望にかられた。言葉の壁と90分という時間で、観客は頭がぼんやりして無関心になってしまうからだ。”身毒丸”のセリフの部分を流ちょうな英語に翻訳しないと密かに決めたのは、むしろ演出家である。非日本人が解説することで、Ninagawaの洗練された構成に純粋にひたれるのではないか、という意図からだった。

いくつかの場面では、確かに言葉が二次的なものになることがある。(10年前のロンドン公演での残り物のように、英国人俳優 Alan Rickman が前もって拡声装置を使って物語のプロットを録音している。)しかしながら”身毒丸”の心理的構成は複雑である。10代の身毒丸(Tatsuya Fujiwara)が継母との確執へとひき込まれるときの感情表現は長たらしいシーンだし、”撫子”(Kayoko Shiraishi)の展開とは関係のない叫びは、多くのアメリカ人観客に拒まれたであろう。

ここまでが約半分。ふええ。筆者は Peter Marks という男性。なかなかウィットに富んだ筆達者みたいだよ。

さて、結構言い方キツイけど、後半どうなのかな。次回へ。

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2008年2月10日 (日)

ワシントンの身毒丸

ワシントンでの身毒丸が始まったそうです。どんなだったか知りたくて検索したら一つ見つけました。観客の一人のブログのようです。藤原竜也君で検索しても、どこにも訳がありません。しょうがないので武田版身毒丸ファンのやどんが訳してみました。訳し間違いは大目に見てね。

http://dcist.com/2008/02/08/brightly_colore.php

皆へ、僕は昨夜、最も狂気にみちた催眠術にかかった。2000人以上の人々もまた、お約束どおり同じ思いをしただろう。それは僕の本当の催眠ではなく、Yukio Ninagawaがかけたものだ。オリヴィエ賞を受賞した監督であり、2002年には Twelfth Night and Medea(これが彼を”Sir Yukio”にしたのだと思うんだが)の大胆な解釈で英国政府から爵位を与えられている。その彼がケネディ・センターで開かれている「JAPAN! Culture+Hyperculture Festival」の演目の一つとして「身毒丸」をひっさげてきたのだ。

日本の伝統芸”能”に合わせ、「身毒丸」は皆の記憶にあるギリシャ悲劇を少々取り入れているように見える。いや、明らかにほとんど「オイディプス王」である。その母親への欲望は、母子相姦のぎりぎりのところでぼかされ表現されている。(目に焼き付いたものが、聞くことから解放されてそっくりそのまま残る)

家族的な要素はおいといて、ストーリーの大半は不可解に見える。たとえ字幕無しの完全な日本語で構成されなかったとしても、入り込めない。ありがたいことにプログラムにおおまかな粗筋が載っている。そしてもし、それでも十分な助けにならなかったとしても、Hans Gruber自身や俳優 Alan Rickman の音声録音による解説があり、この長たらしい話の要約を知ることが出来る。奇怪で恐ろしい話がおよそ85分以上続く。

Hans Gruberの言うように、身毒丸は母親の死後悲嘆に暮れている。かれの年老いた父親が自分のために新しい妻を買いに行ったとき、「撫子」を選ぶ。その女性を見て身毒丸は強い衝撃を感じる。もっと良くないことは、見毒丸の父親が撫子に対して女性としての興味を持たなかったという事実だ。そのことは撫子と見毒丸との感情をただ燃え上がらせるだけだった。

観客はきっと次に何が起きるか想像できるだろうね。その通り!まさに身毒丸は亡くなった母親に会うため、地下世界へ行く穴を売るマジシャンを訪ねるのだ。

そしてここが、少しばかり不気味な話のスタート地点となったのである。

面食らったかな?冷や汗をかかないように。ここの下りは実はある種二次的なものだ。本当のnewsは、奇抜な舞台セットや道具、そして特に蜷川がマネの出来ない方法で振り付けた舞踊、それらすべての要素がグロテスクな視覚的調和のなかにある、ということだ。(これらは観劇後の客が観られるようにロビーに展示するそうだ)

芝居の〆となる街角シーンは、通行人や金属製の工具を持つ作業員たちによる葬列だ。その金属製工具は、80年代のhairbandビデオに使われるような、ただ火花をつくる目的だけのものだったが。ぶったまげたよ。音楽的に、この芝居はAndrew Lioyd Webber への日本的な回答だといえる。大げさで仰々しい、ロックンロール抜きのにせものロック。嘘は言えないよ、ウェスタンやWebberがきらいな耳にとって、恐怖のサウンドだ。それらがすべてスペクタクルであると言うのかい?

主役を演じるTatsuya Fujiwara は15才の時、蜷川の1997ロンドン公演でステージデビューし、以来ずっと続けて日本でスターとなった。言葉の壁もあるし、西部劇と比べてもより日本的な芝居がかった演技をみせるので、彼のパフォーマンスについてコメントしようがない。しかし、藤原がカーテンコールに立ったとき、ケネディセンターのオペラハウスがTimberlake 並みの歓声に包まれたことは、是非書かなければならない。

身毒丸はケネディセンターで三回公演、残り今日と明日のみ。チケットは15ドル~35ドル、できるだけ早くここをチェック。here 「JAPAN! Culture+Hyperculture Festival」はびっくりする事がたくさんあるよ。

この人はベタほめってわけでもなさそうだね。むしろ批判的?いや、びっくりしてるだけかな。

でもアメリカでは受けたみたいだ。

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2006年9月29日 (金)

新幹線、初乗り!

行ってきました新幹線♪ もちろん乗り物じゃなく、舞台。

出し物は ↓ a Cat in the red boots

http://www.vi-shinkansen.co.jp/stage/index.html

そう、「長靴をはいた猫」の新幹線味。それだけじゃなくヨン様ありーの、ハリポタありーの、パロディがいっぱい。お菓子がたくさんつまったクリスマスの長靴 《Red boots》みたい。

主演の生田斗真クンは若くて可愛くて元気が良くて。上質の少女漫画を見た感じ、10代のころにひきもどされてしまった、夢のような時間だったよ。

新幹線としてはもうちょっとヒネリのきいたものが「らしい」のかもしれないけど、たくさんの小ネタのスパイスが効いて十分楽しめた。

チケ取りががギリギリだったから 番号が「Z」!座席表にもなくて心配だったけど、せりだし舞台の下手2列目の良席だった。わーい。目の前を役者さんたちが走る、走る。「観衆参加型」のお芝居だったのでそういう意味でも身近にかんじられて 面白かった、ん。

この新幹線のテイストをめちゃ兄さんが演じたら どうなるだろう?兄さんのまわりだけ、ボワっと異次元空間になりはしないだろうか。それはそれで観たいけど。メタルマクベスだったら どうなるんかなあ^^。

時間は2時間50分。飛行機の時間が気になって カーテンコールを十分楽しめなかったのが残念であった。

あっ  フラガールにトヨエツ兄さんも出てたこと思い出した。 決して陰が薄かったわけじゃないんだけど。。。

兄さん ごめんよー。

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2006年8月18日 (金)

百物語

もう1ヶ月以上前になると思う。

かの白石加代子さんの 「百物語」の舞台に行きました。

白石さんといえば もちろん「身毒丸」の撫子役。

冒頭で「この会場は・・・2度目です。あれは、身毒丸の初演の時」とおっしゃった。

やどんにとっては「身毒丸」はめちゃ兄のものしかありえない。藤原くんのものは全くの別物なんだけど、一般的にはコッチの方が再演やらイギリス行きやらで有名らしい。めちゃ兄のものは「初演」として区別されているんだね。

「身毒丸」はやどんが 俳優・武○真治に初めてであった大切な作品。あとでゆっくり語りたい。

で、「百物語」なんだけど、これは白石さんの一人朗読劇で、語りのうまさがものをいう、ま、ちょっとした怪談かな。第一次感想は「こんなベテランでもセリフ長いとトチるんだな」ってことだった。覚えているだけで3カ所、でも休憩はさんで約2時間をたった一人の語りだけでつくりあげちゃうんだから無理ないかもね。

あと怪談なのになんてあったかいんだろうってこと。これこそ白石さんの人柄とか解釈のしかたとかによるものなんだろーなー。

きれいな人というか むしろ可愛い人といっていい。でもって気を入れたときの迫力がもう、凄いの一言。この人と渡り合うのは大変だったと思うよ。

身毒丸の撫子については「もの申す」ことあるので次の機会に

よい舞台でした。満足。

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